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2008年12月 1日 (月)

血天井

先日の飲み会で話題が出たのだけど中途半端な説明しか出来なかったので再確認。

倹約家で泥臭い戦をする三河武士の魂を植え付けたという松平家の家臣、鳥居忠吉の息子として生まれた鳥居元忠は4つ下の竹千代君の人質生活から徳川家康が五大老に任命されるまでずっと旗本として家康に付き従った。

秀吉の死後、家康は上杉征伐を行うに当たって伏見城を鳥居元忠の手勢1800人に預けて出発、この隙に毛利輝元を担ぎだした石田三成が西軍4万を伏見城に差し向けるのである。元忠は降伏することなく、全ての兵が討ち死にもしくは出火の際に切腹したという。元忠は切腹したとか鈴木重秀もしくは重朝に斬り殺されたとのこと。結局西軍は伏見攻略に10日を要し、家康が会津から引き返すのに十分な時間を与えてしまった。

西軍は急ぎ美濃・伊勢方面へ向かうため、炎上して落ちた伏見城は放置され、2ヶ月後、関ヶ原の戦いが終わって初めて死体が処理されたという。このため、すでに血は床板に染み込んで乾いており、手形・足形、ものによっては床に突っ伏した顔の形がハッキリと残ったという。
この床板が供養の意味で、いろいろな寺に貰い受けられ、足で踏むわけにはいかないということで天井に使われたのが血天井。オイラは何故か3つの寺だと覚えていたのだけど、養源院、宝泉院、正伝寺、源光庵、興聖寺の5つの寺に現存するらしい。尚、伏見城跡地は今は明治天皇の陵墓である(今の伏見桃山城は後世の作りもの)。

ちなみにオイラが血天井を見たのは源光庵。本阿弥光悦ゆかりの光悦寺のついでに寄ったのでな。そこでもしっかりと手形や足形が見て取れたのだけど、血天井として有名なのは三十三間堂近くの養源院だそうな。


源光庵の写真が見あたらず、光悦寺の竹垣でも(2003/12)

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智慧袋」カテゴリの記事

コメント

伏見城自体はすぐに家康が再建しているのだけど1625年に廃されているので、もしかしたら再建時にもそのまま使われたのかもしれませぬ。
昔は死に関する概念が今ほど大層で畏れ多いものではなかったようですし(江戸時代の墓の扱いとかみると結構雑)、鳥居元忠は家康配下では神格化とまでいかないまでも「鑑」的な存在だったようなので、ありがたいものだったのかもしれませぬな。

三十三間堂は小学校の遠足以来行っていないので今度行ってみるかなぁ。

投稿: しげお | 2008年12月 3日 (水) 14:49

以前、養源院は何も知らずに「白い像!」と唱えながら
ほがからに向かったので
訪れてみてサイボーグなおばちゃんから
淡々と血天井の説明を聞いて不意にぶたれたような心地がしました。
通説の「供養」のため寺が貰い受けて天井にしたというのが、
しっくりこなくてしばらく考えました。
普通に考えると、しかるべき供養の後焼却
とかのほうが良さそうと思ったし、
わざわざ寺のほうから貰い受けないだろうから。
そして想像したのが、死んだ家来のことを労わる家康が
「このこと永劫忘れんぞ」
という意味であえて保存して寺に持って行かせたんじゃないかしらということでしたが、
さらに調べてみると天井として各寺にひきとられたのは、
随分後みたいで、養源院が1921年で20年後、
源光庵の本堂建設が1694年でこれが再建じゃなかったら90年後で、
そんなにたってからなおなぜ?とか
じゃあ20年間くらいは血痕残したまま伏見城の床として残されてたのか?
とか、疑問が生まれました。
長々失礼。

投稿: マ | 2008年12月 3日 (水) 11:24

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