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2009年5月 8日 (金)

沢庵

いつも綿密に計画して休暇中に仕事を入れないようにすると不可抗力で仕事がずれ込んで旅先で仕事したり、ということになるのである。今年はテンション上がらず、連休に何の予定も入れなかったら仕事もすっきり連休前に終わった。どうなってんの?

ということで暇。連休前半、天気がいいので散歩。

大崎方面から山手通りを東側へ進む。そのうち目黒川を越えて川沿いに下流へ。しばらくすると山手線の高架が。品川でひとかたまりだった線路はばらけ、山手線と東海道新幹線・横須賀線がセットになっていて、もう少し南で山手線がさらに独立する。この高架をくぐって歩くとすぐに今度は東海道線・京浜東北線の高架が見える。この高架の直前に「東海寺大山墓地」とかかれた道標があるので左に入る。

しばらく歩き坂を上ったところに墓地があり、沢庵宗彭の墓がある。

沢庵禅師は戦国時代~江戸時代初期の臨済宗の禅僧。親父さんは出石の山名家に仕えていたらしいが秀吉に攻められて主家滅亡。親父は浪人。そんなこんなで息子は坊主になったわけですな。あの京都北大路の大徳寺の住持にまでなったものの、江戸幕府の朝廷潰し(紫衣事件)に絡んで流罪に。流罪先は出羽上山ということで、今の山形人には申し訳ないが、当時としては山形行きは罰則だったのな。
関係ないけど大徳寺は京都で一番好きな場所だ。

どうもその後も坊主の間には影響力を持ち続けたようで、幕府 vs 坊主+朝廷の対立関係を緩和する目的か、3代将軍家光は懐柔にかかる。沢庵は2代将軍秀忠薨去の大赦で流罪を赦されて故郷に戻ろうとしたものの、家光に請われて品川の宿にほど近い場所に屋敷を与えられ江戸に住むことに。それが沢庵の死後、東海寺となり、その後も代々将軍家のサポートでそれなりに大きな伽藍を維持してきたようだが、明治維新後に寺領を没収されたとか。というわけで、ここには墓地だけが孤立している。

沢庵と言えば、あの「たくあん」を考えたとか伝えたとか言われてる人なので、言われてみれば墓石も漬け物石に見える。(実際は自然石をそのまま使っているといういかにも禅僧っぽい墓)

都内にありながらここだけは閑静な…と言いたいところだが油断するとこんな感じ。

前述のように線路に挟まれた中州のようなところにあるので、山手線・東海道新幹線がひっきりなしに通る。逆サイドは京浜東北線とかね。おちおち眠ってもいられそうにないが、鉄オタには理想の墓場か?

墓地を出て元の道に戻り、東海道線の高架をくぐって5分も歩けば東海禅寺につく。今では小振りな寺になってしまっているが、大名の青山家・堀田家の墓があり、更にその裏には別の敷地ながら肥後細川家の墓地がある。元は東海寺の別の院だったというから先の墓地との距離感といい、江戸時代は中々の規模だったのだろうことが偲ばれる。
この細川家の墓地は外から見ると立派なものなのだけど、入るにはどうも民家の敷地を通らなければいけないようで躊躇われたので入らなかった。門は開いてたし、説明の看板も立ってたんだけどなぁ。入っていいのかなぁ?

ちなみに戦国武将であり大名の細川忠興は前述の京都大徳寺の高桐院に墓がある。光秀の娘ガラシャ夫人と一緒に。忠興が隠居した後に肥後の加藤家(清正の息子)が改易にあって細川家が肥後に入ることになったので、忠興自身は熊本藩主ではないのよな。初代肥後熊本藩主は息子の忠利。


2003年12月 京都大徳寺高桐院墓所

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コメント

なんか広尾辺りのスクール通わせてるんじゃなかったっけ。
近所に黒田長政の墓があると思いますよ

投稿: しげお | 2009年5月 9日 (土) 08:55

今度さ、うちの戦国オタの kento を一緒に連れてってよ。

投稿: shun | 2009年5月 8日 (金) 11:47

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